Masuk古いテレビの画面に浮かんだ〈08:13〉は、誰も触れていないのにゆっくり薄れ、最後には砂嵐へ溶けた。
隠し部屋には再び機械の低い唸りと、壁の向こうを通る生活排水の音だけが残る。
澪は制服姿の澄花が写った写真を持ったまま、壁一面に貼られた女たちの写真から目を離せなかった。
十三年前に消えた女、十二年前に逃げた杏奈、そして八年前、七刻女学校から生きて逃げたはずの澄花まで、この部屋にいた誰かは同じ方法で見ていた。
「ほかにも残ってるはずだ」
蓮司が低く言った。
妹の写真を見つけてから、声の奥に押し込めていたものが明らかに変わっていた。
冷静さは崩していない。
それでも机の引き出しを開ける指には力が入り、古い木が小さく軋んだ。
朔が床へ散らばった資料へ触れないよう注意しながら、棚の下段を照らす。
ビデオテープの箱のさらに奥に、黄ばんだ大学ノートが何冊も押し込まれていた。
背表紙には年だけが書かれ、一番古いものは十六年前、一番新しいものは数年前で途切れている。
蓮司は八年前の日付が含まれる一冊を選び、手袋をつけて机へ置いた。
中身は宿泊記録に近かった。
ただし、常世荘の正式な契約書でも管理会社の台帳でもない。
日付、人数、簡単な特徴、部屋番号、予定日数だけが手書きで並んでいる。
〈工事業者 一名 二〇一 一泊〉、〈親族 二名 二〇二 二泊〉といった雑な記録が続き、誰が何のために残したのかも分からない。
「管理人の私的な記録かもしれない」
悠斗が紙の癖を見る。
「昔は空室を短期で貸したり、工事業者を泊めたりする管理人もいた。正式な契約を通さずに」
「会社として認められてた?」
「今なら問題になる。でも、十年以上前の個人所有物件なら、現場で勝手にやってた可能性はある」
蓮司が頁をめくる。
八年前。
澄花が七刻女学校から姿を消した翌日。
その日付の欄で、指が止まった。
女子高生 一名
怪我あり
二〇三使用
三泊予定
名前はない。
学校名もない。
けれど、六人の呼吸が同時に止まった。
「これ……」
奈々香が写真の澄花を見る。
「澄花だよね」
「断定はできない」
美月はそう言いながらも、記録から目を離さなかった。
「でも条件は一致する。高校生。怪我をしてる。事件翌日。そして二〇三号室」
澪の胸が強く締めつけられた。
三泊予定。
その短い言葉だけが、異様に現実的だった。
八年間、澄花は「失踪した少女」だった。
七刻女学校の闇へ飲まれ、どこへ行ったか分からなくなった存在。
しかしこの記録の中では違う。
怪我を負い、部屋を借り、三日間眠る予定を立てた一人の高校生として残っている。
「自分で来たのかな」
澪が呟く。
「誰かに連れてこられたなら、普通は〈女子高生一名〉なんて書かないよね」
「連れてきた人間が一緒に泊まらなかっただけかもしれない」
朔が答える。
「三泊予定という情報を誰が伝えたかも分からない」
「でも、澄花は常世荘を知ってた」
蓮司が言った。
「失踪前から調べていた」
彼はしばらく黙ったあと、机の前から離れた。
壁へ貼られた妹の写真を見る横顔には、今までよりはっきりした後悔が浮かんでいた。
「八年前、七刻女学校へ行く直前に、澄花から電話があった」
澪が顔を上げる。
「聞いてない」
「誰にも話してない」
「何て?」
蓮司は答える前に目を閉じた。
「変な人形を元の場所へ返しに行く、って」
奈々香の指が口元へ上がる。
「返し雛……」
「当時の俺は、その名前すら知らなかった。澄花は昔から怪談や呪物の話ばかりしてた。古い民家へ行った、変な石を見つけた、誰も使ってない井戸を調べた。そんな話の一つだと思った」
「止めなかったの?」
澪が訊くと、蓮司は彼女を見なかった。
「止める理由がないと思った」
声が硬い。
「高校生が廃校へ入るとは聞いてなかった。ただ、人形を元へ戻すと言っただけだ」
「元の場所って七刻女学校じゃなかった?」
「今となっては、そうとは思えない」
蓮司は黒い布袋を持つ澄花の写真へ目を向けた。
「妹は人形を七刻女学校から盗んだんじゃない。誰かがあそこへ持ち込んだものを見つけて、本来の場所へ戻そうとしていた可能性がある」
澪は八年前の映像を思い出した。
黒い布袋を抱えた澄花。
『返すもの』
『誰に?』
『ここにいる子に』
あの言葉を、自分たちは七刻女学校へ人形を返すという意味だと思っていた。
だが澄花は七刻女学校へ入る前から、人形をどこかへ「返す」と言っていた。
「じゃあ七刻女学校は途中だった?」
美月が言う。
「人形の元の場所を調べるために行った?」
「あるいは、人形を置いた人間を追ってた」
朔の声が重なる。
澪は胸元の手帳を押さえた。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
澄花は怪談そのものより、誰が怪談を作ったのかを調べていた。
七刻女学校でも、仕掛けに気づいた直後に「誰が仕掛けたの」と怒っている。
返し雛についても、誰かがどこから持ち込んだのかを追っていたとすれば、常世荘へ来た理由も変わって見えた。
蓮司は宿泊記録を撮影したあと、押し入れ側の壁へ向かった。
「澄花は三泊するつもりだった」
「実際に三泊したかは分からない」
悠斗が言う。
「分かってる」
蓮司の返答が鋭かった。
六人は隠し部屋と二〇三号室の境をさらに調べた。
澄花が撮られた写真の角度からすると、彼女は押し入れのある和室で過ごしていた可能性が高い。
覗き穴の一つは布団を敷く位置へ向けられており、そのすぐ下の木材には古い引っかき傷が残っていた。
澪が押し入れの下段へ手を伸ばすと、床板の隙間に小さな金属片が挟まっているのを見つけた。
「何かある」
朔が光を向ける。
澪は手袋をつけ、細いピンセットで引き出した。
制服のボタンだった。
黒に近い濃紺。
裏側には学校指定品らしい小さな刻印。
澪は見ただけで分かった。
「七刻女学校へ行った夜、澄花が着てた制服と同じ」
奈々香が口元を押さえた。
蓮司が写真を拡大する。
写真の澄花の胸元。
下から二つ目のボタンがない。
「ここで取れた」
蓮司の声が低くなる。
床板の隙間には、ボタンだけではなかった。
美月が紫外線ライトを当てると、木材の端に暗い染みが浮かび上がった。
肉眼では古い汚れにしか見えなかった場所へ、細かな飛沫状の痕跡が残っている。
美月が綿棒で採取し、簡易試薬を使う。
「血液に近い反応」
「澄花の?」
澪が訊く。
「分からない。八年前のものかどうかも、この場では判断できない」
「でも、写真には怪我した澄花がいる」
蓮司が言った。
「制服のボタンまで残ってる」
彼の声が震えた。
「妹はここにいた」
誰も否定できない。
蓮司は壁の覗き穴へ顔を向けた。
「生きていたのに」
低い声の奥から、押さえていた怒りが滲み出す。
「七刻女学校で死んだと思われて、その翌日にはここで生きていた。誰かに見られながら、怪我したまま三日泊まるつもりでいた」
悠斗が息を吐く。
「俺たちは知らなかった」
蓮司が振り返った。
「何を」
「澄花がここにいるなんて知らなかった!」
悠斗の声も強くなる。
「俺たちは警察に何度も聞かれた。山も学校も捜索された。澄花が常世荘を調べてたことも、ここに来るつもりだったことも知らなかったんだ」
「お前たちが本当のことを話していれば、警察の捜索は変わったかもしれない」
「それは――」
「準備室で声を聞いたことを隠した。口論を隠した。盗んだものを隠した。翌朝学校へ戻ったことも隠した」
蓮司の視線が、澪たちを順に切るように動く。
「全員が少しずつ黙った結果、妹は『その夜に死んだ少女』にされた」
「俺だけのせいみたいに言うな!」
悠斗が一歩近づいた。
次の瞬間、蓮司の手が悠斗の胸ぐらを掴んだ。
服の襟が強く引かれ、悠斗の背中が壁へぶつかる。
「蓮司!」
澪が声を上げる。
「生きてたんだぞ」
蓮司の声は低く、激しかった。
「俺の妹は生きてた。ここまで来てた。それなのに八年間、誰も探さなかった」
「探してた!」
「どこをだ!」
悠斗が蓮司の手首を掴む。
「警察が指定した場所をだよ! 俺たちは高校生だったんだ。澄花が勝手に常世荘へ来てたなんて分かるわけないだろ!」
「勝手に?」
蓮司の指へさらに力が入った。
「その言い方をするな」
朔が二人の間へ入り、蓮司の腕を掴んだ。
「離せ」
「お前は黙ってろ」
「今ここで悠斗を殴っても、澄花の足取りは戻らない」
「お前に言われたくない」
蓮司の目が朔へ向く。
「八年前、妹のそばでカメラを回してた人間に」
朔の表情が一瞬だけ硬くなった。
それでも手を離さず、低い声で繰り返す。
「離せ」
数秒後、蓮司の指が悠斗の襟から外れた。
悠斗は壁へ背をつけたまま息を整え、乱れた服を直す。
奈々香は顔を伏せ、美月は誰にも触れず、ただ六人の距離を確認するように視線を動かしていた。
澪は何も言えなかった。
蓮司の怒りは間違っていない。
悠斗の反論も間違っていない。
八年前、全員が自分を守るために何かを伏せた。
それでも、澄花が常世荘にいると知る方法までは持っていなかった。
沈黙を破ったのは、古いテレビだった。
ぶつ、と背後で電源が入る。
全員が振り返った。
コンセントは抜かれている。
画面には砂嵐。
白と黒の粒子が激しく揺れたあと、古い映像へ切り替わる。
二〇三号室。
八年前。
画面右下の時刻は午前三時十七分。
撮影位置は、隠し部屋の覗き穴。
和室には布団が敷かれていた。
その中で、澄花が眠っている。
制服ではない。
大きめの白いシャツと、借り物らしい灰色のスウェット。
額には包帯が巻かれ、右手だけ布団の外へ出ている。
手首には赤い組紐が残っていた。
澪の胸が締めつけられる。
「ここで寝たんだ」
美月が呟いた。
映像の澄花は疲れ切った顔をしていた。
それでも呼吸は穏やかで、七刻女学校の理科準備室から出てきた映像より血色も戻っている。
少なくとも、この時点では命に関わるほど衰弱しているようには見えなかった。
時刻が進む。
午前三時十七分十二秒。
澄花の目が突然開いた。
ゆっくりではない。
最初から起きていた人間が、合図を待って目を開いたような動きだった。
澄花は天井を見ない。
部屋の入口も見ない。
まっすぐ撮影位置を見る。
壁の中。
カメラへ。
「いるんでしょ」
奈々香の肩が跳ねた。
澄花は布団から起き上がる。
包帯の下から髪が落ちる。
「ずっと見てるよね」
撮影者は答えない。
澄花は眠そうでも怯えてもいなかった。
怒っていた。
「昨日、学校にもいたよね」
蓮司が画面へ近づく。
澪は呼吸することも忘れていた。
七刻女学校。
八人目。
黒い雨具。
カメラを持つ人物。
澄花は、その存在を知っていた。
映像が一度乱れる。
砂嵐の中に、何か低い声が混じった。
聞き取れない。
澄花は布団を抜け、カメラへ近づいた。
「あなたが犯人なら――」
そこで映像が切れた。
黒い画面。
何も映らない。
「続きは?」
蓮司がテレビへ近づく。
反応しない。
朔が側面の操作部へ触れても、電源すら入っていないことになっている。
画面中央へ、白い数字だけが浮かび上がった。
03:17。
その下へ、もう一つ。
08:13。
澪の耳元で、聞き覚えのない男の声が囁いた。
「そこから先は、撮らせなかった」
澪が振り返ったとき、隠し部屋には六人しかいなかった。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の